MKK TOKYO

青山学院大学 経済学部経済学科 3年(2017年5月現在) 。 企業研修を受ける中で人に何かを伝えることの難しさを痛感。 少しでもそれを克服できるように、また、少しでも“何か”を人に届けられるようにと思い立ちブログを開設。

【輝きの法則】

 

 

 

 

お久しぶりです。

新年度が始まり、早2ヶ月が経ちました。

 

 

進路選択に悩んでいた4月とは打って変わって、

5月では「ここだ!」という突破口が見え、ひたすら「手堅く準備」をしている次第です。

 

 

そして、就職活動の関係で現在いろんな方のお話しを聞く機会があるのですが、

そんな中で「この人スゲェーカッコいいなぁ」と心を打たれた方達の共通点について今回書こうと思います。

 

 

題して、「輝きの法則」。

 

 

 

 

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最近見た映画に「8 Mile」があります。

 

 

アメリカを代表するラッパーEminemの半自伝的映画です。

 

 

黒人ラッパーに馬鹿にされ舞台から降りた経験のある主人公ジミーは、家族の問題や自身が白人であることの運命を乗り越えるため、思いを胸に再びラップバトルに立ち向かう姿が描写されています。

 

 

 

 

母子家庭で育った私とジミーの家庭環境が重なることもあり、この作品にとても感動しました。

 

 

そして、私の目にジミーの奮闘する姿は「キラキラ」と輝いて見えましたが、社会人の先輩含め、私の身近な友人にも「キラキラ輝いてる人」がいます。

 

 

そんな方達を近くで見ていると、何故か「カッコいいなぁ」と魅了されてしまいます。

 

 

ついつい目で追うと、誰に対しても明るく接していて、時折笑顔が溢れる。

嫌な感じなく、確固たる絶対的な存在感を放つ。

 

 

 

 

どんな共通点があるのか考えてみると、2つ思い浮かぶものがありました。

 

 

①「純粋な思い」と、②「愚直に泥臭く行動する姿」です。

 

 

いい歳した大人が純粋な思いで本気になってる姿は、ある人には滑稽に写るかもしれません。

純粋な思いは「子供っぽく」写り、泥臭い姿勢は「スマートじゃない」と写るかもしれません。

 

 

しかし、私はそういう純粋で泥臭い方達に惹かれます。

性別年齢など関係無くそんな方達を側で見ていると、何故か引き寄せられてしまいます。

 

 

「人の魅力」というものでしょうか。

 

 

 

 

どんな方達と一緒に仕事がしたいか、どんな方達と一緒にいたいか、と聞かれれば

私は迷わずまさに“そんな方達”と一緒にいたいと思います。

 

 

自分史を思い返すと、芸能事務所に所属していた中学時代、日夜ダンスに明け暮れていた高校時代も

そんな「純粋に泥臭く頑張る方達」に囲まれ、沢山の刺激を受ける中で、自分も「キラキラ」と微光を放てていたように思います。

 

 

人生の岐路に立たされた今だからこそ思いますが、

これからは微光ではなく、キラキラと確固たる輝きを放つ魅力的な大人になりたいと思います。

 

 

 

 

まずは、そういう大人になるための片道切符を得るところから始めなくてはいけませんね。

明日から6月に突入しますが、ここからが勝負です。

 

 

 

 

Every moment is a chance to turn it around.

 

 

 

 

 

【刹那】

 
 
 
お久しぶりです。
 
絶賛就職活動中ですが、大学卒業まで残り一年を切りました。
 
気づけばもう大学生活が3年も過ぎていて、個人的な感想としては「いろいろ詰め込んだ3年間だったなぁ」と思います。
 
自宅浪人をして大学に入った私にとって「大学生活の意義=自分の可能性を広げるもの」と入学当初から明確だったので、
そういった明確なビジョンに従って、スターバックスでのアルバイト、ベンチャー企業での長期インターンシップ、哲学や経営学など学問的習熟に勤しみました。
 
自分本位に「欲張りといろいろとやったなぁ」と思うと同時に、残り1年弱の大学生活は「焦点を絞って一点特化した注力」の仕方をしようと思います。
 
今後の重要度をパラメーターとして取捨選択することが大切だとこの本を読んで学びました。
 
自由であり続けるために 20代で捨てるべき50のこと (Sanctuary books)

自由であり続けるために 20代で捨てるべき50のこと (Sanctuary books)

 

 

 

 

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あっという間に桜の時期が過ぎ、美しかった桜は気がつけば葉桜に変わっていました。
 
季節とは、時間とは、そういった刹那的で尊いものであると教えられるようです。
 
一時も無駄にせず、自分を見失わず残りの大学生活を過ごしたいと思います。
 
それでは、また。
 
 
 

【未来を選択する】

 

 

久しぶりの更新ですが、いつものコラムと違って近況報告という形で文字を起こします。

 

 

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最近はというと、タイムリーな話では大学の期末試験の最中で明日も試験が3つあります。単純に気分転換で書いています。

突然部屋の掃除したくなっちゃう時ってあるじゃないですか。それです。

 

 

近々の重要度の高いトピックでは、自分の将来について真剣に考えています。

何の為に生きたいのか。

どんな風に生きて、誰を幸せにしたいのか。

何を大切にして、何を自身の幸せとして捉え、どんな未来を描きたいのか。

自分の残りの人生を何に使いたいのか。

自分ありきの自分なのか、他人ありきの自分なのか。

お金が自分を幸せにしてくれるのか、人が自分を幸せにしてくれるのか。

自分には何ができて、何ができないのか。

誰に、どんな方法で力になることができるのか。

 

 

深くはここでは書きませんが、大体はそのようなことを頭の中で思考を巡らせています。

そのようなことを考えていると、自然と自分の心の中で熱い思いが湧いてくるので、きっと最終的には明確で純度の高いアンサーにまとまるんだろうなぁなんて思っています。

きっと大丈夫。

 

 

人生は選択の連続なんて言いますが、これは決して断続的なものではなく、継続的で恒常的で頻発的なことであると私は思っています。

今この瞬間をどう生きるか、目の前にいる相手にどのような言葉をどのような語り口で伝えようか。

今うっかりしそうになったことも後回しにした方が実は後々上手く行くんじゃないだろうか。

今目の前で起きていること、直面していることに対してどのような態度で受け止めるのか、どういった覚悟を持って望むのか。

人生は選択の連続というよりかは、もっとミクロに捉えて日常は選択の連続と言った方がわかりやすいかもしれません。

 

 

選択の前には、必ず思考が必要不可欠です。

これは日々の習慣やトレーニングで思考スピードや思考軟度を高めることができるので、やはり毎日考える癖は付けていたいものです。

モノの考え方には必ずその人の価値観やバックボーンが投影され主観的になってしまう傾向があります。なので、第二者視点、ひいては第三者視点が必要になります。

そう言った意味で、最近は家族や大学の友人、一緒に働く仲間の視点と知恵に助けて貰うことが多いです。

自分の人生くらい男らしく自分ひとりで決めたいものですが、すみませんが頼らせてください。

お願いします。

 

 

最終決定は自分でします。

自分の選択には責任を持ちたいですし、持たないといけません。

何か同程度同価値で全く異質の要素Aと要素Bがあったとして、天秤にかけた時大体同じくらいの重さ。

それらの要素を吟味し、思考し、選択した際は「片方の要素を選んだ」ことと同時に「もう片方の要素を諦めた」という現象が起こります。

Aを取ることは、すなわちBを諦めることであり、逆もまた然りです。

選んだことに責任を持つということは、諦めたということにも責任を持つことなので、「あぁやっぱあっちにしておけば良かった」なんて思わないようにしなければなりませんし、思ってはいけないように感じます。

それが道義なのかもしれません。

 

 

「自分の選択に責任を持つ」

言葉では幾らでも簡単に言えますが、本当にその重みを理解するのは、きっと選択した後にわかるのでしょう。

 

 

 

 

【Painkiller】

 

 


「利害関係を抜きにして付き合える人」の存在が、自分の心の支えになっている。
広い社会に飛び出して様々な価値観に触れることは確かに刺激的だが、その一方で自分の気持ちに余裕が持てなくなったり、精神的に疲弊してしまうことがある。

 

そのような状況に置かれた誰もがそんな風に思うのだろうか、同じように気持ちが擦り減るような思いで誰もが苦しんでいるのであろうか。
はたまた自分の精神的な弱さの裏付けとして現れている特異的な状況なのだろうか。

 

一般論に沿って考えるとすれば前述の「そのような状況に置かれた誰もがそんな風に思う」が答えだろうか。

 

こうして言語化することがある種の鎮痛剤の様に効き、落ち着くことができる。

  

 

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組織に入れば、担当業務がある。
与えられた役割に応じて自分を変えることができるから、人は社会的な生き物だ。その証明に「立場が人を作る」という格言が存在する。
そして、役割によって組織内で関わるひとに対して掛ける言葉は十分に変わりうる余地を持っているから、言うまでもなくポジショントークは社会的な産物である。

 

しかし、公私二元論で考えた時に、公的な自分が私的な自分になりうることをここ数年で実感した。
つまり、自分が公的な場で与えられた役職や立場に応じて意識的に行っている振る舞いや発言が、私的な自分を染め上げていくような状況だ。
もっと平易に言えば、他者の感情を揺さぶり行動をコントロールするような職に就いた人は、同じような振る舞いを無意識のうちに私生活の中でも行ってしまうということだ。

 

この状況の抜け道として「利害関係を抜きにして付き合える人」との関わりに安堵を覚えるのだろうか。

私的な自分が公的な自分になり得る、今はそんな力強さが欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

【The 5th season】

 
 
 
気づけば夏が終わっていた。
 
流れる時間の前で僕たちは無力だ。
 
季節が移り変わっていくごとにセンチメンタルな気持ちになってしまうのは何故だろうか。
 
焦燥感からなのだろうか、寂しさ故なのだろうか。
 

 

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あれをしよう、これをしようとプランを立て、結果として計画以上の満足感や充実感を得ることができた今年の夏。
 
ゼミ仲間と静岡県白浜に行き美しい海を目の前に潮風を体で感じた。
 
照りつける太陽のもと、高校時代の親友と登山をし、山頂まで辿り着いた時に大きな達成感を味わった。
 
7年ぶりに母方の祖父母の元を訪れたが、久しぶりに顔を出したことを喜んでくれて、付き合いの大切さを感じた。
 
定年退職した高校時代の恩師に会い、教師時代の苦悩を聞き、胸を打たれた。
 
ゼミの研修でシンガポールに中期滞在し、現地で知り合った人の話から母国のことを客観的に見つめる機会を得た。
 
 

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多くのインスピレーションを受けた夏だったと言えるが、どれもこれも「今の自分の視点からでしか感じ得ることができないもの」であり、どうかこれらの体験を忘れたくないと切に思う。

 
頭の中で起きた出来事を整理してくと、そういった思いに駆られてしまう。
 
 
 
いま僕は、次の季節を迎える前に夏の余韻を味わっている。
 
 
 
 
 

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最近、海外のインディーズバンドFickle Friendsにハマって曲を聴き漁っています。

 

90年代を思わせる音律をベースにセンチメンタルな歌詞がとても素敵です。

 

Always teaching me how to be
When your folks are not here to see
You crashing on the floor with me
But I can't sleep

And I don't wanna know
You've found another place to go
I copy everything practical
And for the last time I am sure

 

歌詞の続きはこちらから

 

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【人の成熟】

 

大学生活の中で最も大切なことは、「自分の感性が揺さぶられる体験をすること」だと僕は思う。

 

 
 

 

高校生と大学生の最大の違いは「社会との接点が飛躍的に増える」ことだ。

 

自分の高校時代を思い返しても、行動範囲は家庭/学校/部活/バイトせいぜいこれくれらいで、極めて限定的だった。

 

だからこそ、顔を合わせる相手はいつも同じで、退屈と言ってしまえばそれまでかもしれないが、ある程度型にはめられた生活を高校生活では余儀なくされた。

 

その一方で、大学生活に型はない。

 

自分がやりたいことに対して何でも愚直にやれるし、何かを始めることも、そして何かを終えることも全て自分次第だ。

 

責任の所在ももちろん自分にあるけど、裁量権は全て自分にある。

 

 

 

そんな大学生活の中で、「自分の感性が揺さぶられる体験をすること」は大きな意味を持つ。

 

「こんなこと知らなかった。」

 

「こんな考えは自分になかった。」

 

それらの感動的なインスピレーションは、その後の自分の人生を大きく変える力を秘めている。

 

自分の世界観はいくらでも変えることができるのだ。

 

 

 

限られた時間の中で、どんな人生を歩めば僕たちは幸せだろうか。

 

お金持ちになることだろうか。

 

社会的なステイタスを得ることだろうか。

 

 

人それぞれ意見の分かれるところだと思うが、僕はそれを「豊かな人生」を歩むことにあると思っている。

 

感性揺さぶれられる経験をすることは、豊かな人生を歩む上での片道切符だ。

 

行き先はどこかもわからないけれど、きっと自分を良い方に導いてくれる。

 

 今年の夏もそんな素敵な体験ができますようにと願った。

 


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夏休みが始まり早速、ゼミ合宿で伊豆に行きました。

 

早朝海辺に行ったり、最終日下田の温泉に行ったりと、充実した3日間を過ごすことができて、とても満足しています。

 

 

【誰か】

 

 

「今この瞬間頑張れない奴は、この先の人生も絶対に頑張れない。」


自戒を込めて自分自身によく言い聞かせている言葉だ。

 




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時として、物事に見切りをつけること、物理的に無謀な行為に線引きをすることは、合理的解決方法の一つとして選択肢にあっても良いだろう。


しかし、「なりたい理想の自分像」を達成するための努力を途中で諦めてしまうのは勿体ないことだと僕は思う。

 

 

 


努力には大きく分けて2つ種類がある。


①「自分のため」の努力と、②「誰かのため」の努力だ。

 

①「自分のため」の努力は、自分が掲げた「理想の自分像」を達成するためのものであり、一見すると動機の源泉が自発的なもののように思えるが、深掘りすると人との関わりの中に動機が隠れている。

 

それは、「周りにバカにされて悔しい。」「負けたくない。」という誰かに対する反骨精神だったり、「あの人みたいになりたい!」という誰かに対する前向きな憧れだったり、「モテたい!」というある種 周囲に対する見栄だったり、動機の源泉には外的要因としての他人の存在が大きく作用していることが言える。


そして、他人と自分を比較した時に見つけた”差分”を埋めようとする行為こそが「自分のため」の努力の正体だ。

 

 

また、②「誰かのため」の努力は、周囲に「求められていること」に応えたいという純粋な思いや、所属コミュニティのために「自分がやらなければならない」という使命感が動機の源泉だ。

 

どちらにせよ、努力の元には常に「誰か」の存在がある。

 

 

 


「誰か」の存在を思い続ければ、努力は継続できる。

 

「悔しい思い」をしたその相手を思い出すこと、「あんな風になりたい」と思ったロールモデルの存在を思いだすこと。

 

 「誰か」の存在は、自分の人生に大きく影響を与えるものであり、時として与え“続ける”ものであると僕は思う。

 

 

 


追い求めた理想を現実に変えていくんだ。

 

 

「誰か」と一緒に、一歩づつ。