MKK TOKYO

青山学院大学 経済学部経済学科 3年(2017年5月現在) 。 企業研修を受ける中で人に何かを伝えることの難しさを痛感。 少しでもそれを克服できるように、また、少しでも“何か”を人に届けられるようにと思い立ちブログを開設。

【Painkiller】

 

 


「利害関係を抜きにして付き合える友人」の存在が、自分の生活の支えになっている。
広い社会に飛び出して様々な価値観に触れることは確かに刺激的だが、その一方で自分の気持ちに余裕が持てなくなったり、精神的に疲弊してしまうことが時として存在する。

 

そのような状況に置かれた誰もがそんな風に思うのだろうか、同じように気持ちが擦り減るような思いで誰もが苦しんでいるのであろうか。
はたまた自分の精神的な弱さの裏付けとして現れている特異的な感情なのだろうか。

 

理解に苦しむところではあるが、社会の一般論に沿って考えるとすれば前述の「そのような状況に置かれた誰もがそんな風に思う」が答えだろう。こうして言語化することがある種の鎮痛剤の様に効き、ふと我に帰ることができる。

  

 

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組織に入れば、担当業務がある。
与えられた役割に応じて自分を変えることができるから、人は社会的な生き物だ。その証明に「立場が人を作る」という格言が存在する。
そして、役割によって組織内で関わるひとに対して掛ける言葉は十分に変わりうる余地を持っているから、ポジショントークは社会的な産物である。

 

しかし、公私二元論で考えた時に、公的な自分が私的な自分になりうることをここ数年で実感した。
つまり、自分が公的な場で与えられた役職や立場に応じて意識的に行っている振る舞いや発言が、私的な自分を染め上げていくような状況だ。
もっと平易に言えば、他者の感情を揺さぶり行動をコントロールするような職に就いた人は、同じような振る舞いを無意識のうちに私生活の中でも行ってしまうということだ。

 

この状況の抜け道として「利害関係を抜きにして付き合える友人」との関わりに安堵を覚えるのだろうか。
ヒトはいささか利己的な生き物だと思った。


少し哀しくなった。

 

 

 

 

 

【The 5th season】

 
 
 
気づけば夏が終わっていた。
 
流れる時間の前で僕たちは無力だ。
 
季節が移り変わっていくごとにセンチメンタルな気持ちになってしまうのは何故だろうか。
 
焦燥感からなのだろうか、寂しさ故なのだろうか。
 

 

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あれをしよう、これをしようとプランを立て、結果として計画以上の満足感や充実感を得ることができた今年の夏。
 
ゼミ仲間と静岡県白浜に行き美しい海を目の前に潮風を体で感じた。
 
照りつける太陽のもと、高校時代の親友と登山をし、山頂まで辿り着いた時に大きな達成感を味わった。
 
7年ぶりに母方の祖父母の元を訪れたが、久しぶりに顔を出したことを喜んでくれて、付き合いの大切さを感じた。
 
定年退職した高校時代の恩師に会い、教師時代の苦悩を聞き、胸を打たれた。
 
ゼミの研修でシンガポールに中期滞在し、現地で知り合った人の話から母国のことを客観的に見つめる機会を得た。
 
 

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多くのインスピレーションを受けた夏だったと言えるが、どれもこれも「今の自分の視点からでしか感じ得ることができないもの」であり、どうかこれらの体験を忘れたくないと切に思う。

 
頭の中で起きた出来事を整理してくと、そういった思いに駆られてしまう。
 
 
 
いま僕は、季節と季節の間にいる。
 
 
 
 
 

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最近、海外のインディーズバンドFickle Friendsにハマって曲を聴き漁っています。

 

90年代を思わせる音律をベースにセンチメンタルな歌詞がとても素敵です。

 

Always teaching me how to be
When your folks are not here to see
You crashing on the floor with me
But I can't sleep

And I don't wanna know
You've found another place to go
I copy everything practical
And for the last time I am sure

 

歌詞の続きはこちらから

 

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【人の成熟】

 

大学生活の中で最も大切なことは、「自分の感性が揺さぶられる体験をすること」だと僕は思う。

 

 
 

 

高校生と大学生の最大の違いは「社会との接点が飛躍的に増える」ことだ。

 

自分の高校時代を思い返しても、行動範囲は家庭/学校/部活/バイトせいぜいこれくれらいで、極めて限定的だった。

 

だからこそ、顔を合わせる相手はいつも同じで、退屈と言ってしまえばそれまでかもしれないが、ある程度型にはめられた生活を高校生活では余儀なくされた。

 

その一方で、大学生活に型はない。

 

自分がやりたいことに対して何でも愚直にやれるし、何かを始めることも、そして何かを終えることも全て自分次第だ。

 

責任の所在ももちろん自分にあるけど、裁量権は全て自分にある。

 

 

 

そんな大学生活の中で、「自分の感性が揺さぶられる体験をすること」は大きな意味を持つ。

 

「こんなこと知らなかった。」

 

「こんな考えは自分になかった。」

 

それらの感動的なインスピレーションは、その後の自分の人生を大きく変える力を秘めている。

 

自分の世界観はいくらでも変えることができるのだ。

 

 

 

限られた時間の中で、どんな人生を歩めば僕たちは幸せだろうか?

 

お金持ちになることだろうか。

 

社会的なステイタスを得ることだろうか。

 

 

人それぞれ意見の分かれるところだと思うが、僕はそれを「豊かな人生」を歩むことにあると思っている。

 

感性揺さぶれられる経験をすることは、豊かな人生を歩む上での片道切符だ。

 

行き先はどこかもわからないけれど、きっと自分を良い方に導いてくれる。

 

 今年の夏もそんな素敵な体験ができますようにと願った。

 


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夏休みが始まり早速、ゼミ合宿で伊豆に行きました。

 

早朝海辺に行ったり、最終日下田の温泉に行ったりと、充実した3日間を過ごすことができて、とても満足しています。

 

 

【誰か】

 

 

「今この瞬間頑張れない奴は、この先の人生も絶対に頑張れない。」


自戒を込めて自分自身によく言い聞かせている言葉だ。

 




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時として、物事に見切りをつけること、物理的に無謀な行為に線引きをすることは、合理的解決方法の一つとして選択肢にあっても良いだろう。


しかし、「なりたい理想の自分像」を達成するための努力を途中で諦めてしまうのは勿体ないことだと僕は思う。

 

 

 


努力には大きく分けて2つ種類がある。


①「自分のため」の努力と、②「誰かのため」の努力だ。

 

①「自分のため」の努力は、自分が掲げた「理想の自分像」を達成するためのものであり、一見すると動機の源泉が自発的なもののように思えるが、深掘りすると人との関わりの中に動機が隠れている。

 

それは、「周りにバカにされて悔しい。」「負けたくない。」という誰かに対する反骨精神だったり、「あの人みたいになりたい!」という誰かに対する前向きな憧れだったり、「モテたい!」というある種 周囲に対する見栄だったり、動機の源泉には外的要因としての他人の存在が大きく作用していることが言える。


そして、他人と自分を比較した時に見つけた”差分”を埋めようとする行為こそが「自分のため」の努力の正体だ。

 

 

また、②「誰かのため」の努力は、周囲に「求められていること」に応えたいという純粋な思いや、所属コミュニティのために「自分がやらなければならない」という使命感が動機の源泉だ。

 

どちらにせよ、努力の元には常に「誰か」の存在がある。

 

 

 


「誰か」の存在を思い続ければ、努力は継続できる。

 

「悔しい思い」をしたその相手を思い出すこと、「あんな風になりたい」と思ったロールモデルの存在を思いだすこと。

 

 「誰か」の存在は、自分の人生に大きく影響を与えるものであり、時として与え“続ける”ものであると僕は思う。

 

 

 


追い求めた理想を現実に変えていくんだ。

 

 

「誰か」と一緒に、一歩づつ。

 

 

 

 

 

【アイディア・フォーマット】

 カフェでのアルバイトを辞め、企業でインターンを始めてからもう少しで1ヶ月が経つ。

 

 先輩たちは皆、とても親切で良くしてくれる。仕事の付き合いだけでなく、ご飯や飲みに誘ってくれたり、僕をコミュニティの一員として迎え入れてくれた。「人付き合い」という側面で見れば、有り難いことに上手くいっている。

 

 業務における側面で見れば、正直のところ壁にぶち当たることの連続で、とても苦戦している。コンプライアンスの問題もあるので、ザックリ話すと僕の配属はイベント事業を手がける部署で、プロジェクトの進め方は以下だ。

 

1市場調査⇨2イベントの企画⇨3営業&集客⇨4イベント運営

 

面接当時、僕は担当人事の方に「いろんな業務を経験したい。」「自分のアイディアや考えを形にしたい。」の2つを伝えた。まさしくそれらが体現できる部署に配属させて貰った。

 

 「いろいろなことを経験する」というのは、言うまでもなく大変なことだ。それでも僕はいろんなことを経験したかった。それは、「どんな職業分野が一番自分の本領を発揮しやすいか」を知りたかったからだ。一通りの業務を完了させた後、自分と職種の適性を包括的に把握できれば…と思っている。今はその途中経過の時期に当たる。

 

 「自分のアイディアや考えを形にする」というのは、試行錯誤の連続だ。「新しいこと」を提案するのには、それ相応の客観的理由付けがなければ受け入れてもらえない。僕が「2企画」段階において最も苦戦した最大の点は、この「理由付け」だった。

 

コンテンツA×コンテンツB=プロダクトCという方程式を仮に定義づけた時に、なぜ答えはCになるのか、Cは一体、自社やクライアントの企業にどの程度の効果・メリットをもたらすのか。また、なぜ構成要素はAでないといけないのか?なぜBでないといけないのか?AとBは一体どのように作用し合うのか?追求の余地がない奥深くまで落とし込まないといけない。

 

 理由付けが曖昧だと方程式は定義できない。いわゆるボツ企画となる。しかし、僕がここで一つ気づいたことは、『世の中で「新しいこと、ぶっ飛んだこと」と言われるプロダクトやサービスは「既成概念の新しい組み合わせ」に過ぎない。』ということだ。世の中でクリエイティビティを発揮した誰もが、全く無の状態からアイディアを生み出した訳ではないはずだと僕は思っている。

 

 最近、電車のつり革広告で見た「うんこ漢字ドリル」はまさしくそれが当てはまる。

 

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「うんこ漢字ドリル」(文響社)

発売後約2カ月で発行部数148万部(2017年5月12日時点)を記録し、空前のベストセラーになっている。

 

 A×B=Cという方程式に従えば、「漢字ドリル×うんこ=学習効率が良く、且つ売れる教材」となる。

 

真面目にうんこについて語るが、小学生からしたらうんこは面白い要素なのだろう。大人になった今でこそ全くその面白さを理解できないのだが、恐らく世間一般で恥ずかしいものとされている物を口に出して言うことで感じる「羞恥心」が小学生にとっての面白さの源泉なのだろう。確かに、僕も小学生の時はめちゃめちゃ「うんこうんこ」言ってた。

 

漢字ドリルに関していえば、小学生が使う学習教材としてポピュラーな教材だ。それらを掛け合わせ、「売り出し方」を工夫する(=電車のつり革広告に掲載するなど)ことで爆発的ヒットとなり、企業にとっても、それを使って勉強する小学生たちにとってもプラスの価値をもたらした。

 

 話は脱線するが、小学生向けの学習教材に「うんこ漢字ドリル」があるならば、高校生向けに「淫語漢字ドリル」があっても良いのでは…と思ったのは僕だけであろうか。

 

もう一つ例を挙げるとするならば、一時期流行った「食べるラー油」がそれだ。

 

 構成要素となる一つ一つのコンテンツ(AやB)は、正確な市場調査の中でどんなコンテンツが存在するのか(AやBだけでなくCやD)を知ることと、クライアントのニーズを汲み取ることで抽出できる。企画の中で考えがまとまり、コンテンツが揃ってきた時は快感だった。既に埋めてあるパズルのピースから逆算して、残り1つが容易にイメージできるように快感だった。

 

今週から3営業&集客の段階に移る。

また、新しい壁だ。

初心を忘れず挑みたい。

 

 

 

【人との関わりの中で】

 

 

 

「他人は自分を写す鏡。」

 

 

 

小学生の頃から聞き覚えのある、いわゆるありふれた「社会の摂理」の一つだ。

かつての僕はこの言葉の真理など考えもしなかったが、公の場での付き合いが多くなるにつれ、対人関係で「相手のリアクションを見ること」に注意することが増えた。 

 


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そもそも、僕がこの言葉を思い出すキッカケとなったのはアルバイト中にあった。

言わずと知れた世界的な某緑のエプロンを着るカフェチェーン店で働いていた僕は、フランクな性格からお客さんと仲良くなるのが比較的早かった。

アルバイトを始めた当初から、男女分け隔てなくお客さんと会話のやり取りをすることは僕にとってハードルの高いことではなく、礼儀こそあれど、そこに「客と店員」の壁は存在しないように思えた。

次第に「お兄さん、次いつお店いるの?」と聞かれるようになり、僕に会いに来てくださるお客さんがどんどん増えていく実感もあった。

当時の僕はその理由に関して全く考えることをしなかったので、「人との付き合いにおけるコツ」を直感的に体現していたのだろうか。

 

 

 

しばらく経ち、アルバイトで新人の育成を任される立場になった。

後輩たちは、会計、レジ打ち、ドリンク作成、提供などメキメキと業務の力をつけていったが、そこで一つの“気づき”があった。

実務的な業務は問題なくこなせるようになったのに、接客業の肝をなす「お客さんとの会話のやり取り」がなかなかできるようにならない。

正確に言えば、最初から上手くお客さんとコミュニケーションを取れる後輩もいれば、そうでない後輩もいた。

新人の育成を担当する立場だったので、これは僕に与えられたミッションでもあり、使命感があった。

以下そこでの考えをまとめたい。

  

  

①対人関係が先天的に得意な人もいれば、そうでない人もいる前提。

 

先に前述したとおり、「人との関わり」が最初から得意な人もいればそうでない人もいる。

 

肌感だが、それが最初から得意な人に多く共通する要素が二つある。

a「兄弟、姉妹構成において末っ子であること」とb 「ポジティブな性格であること」の二つだ。

 

aについては、生まれた当時から両親以外で周りの環境に不特定少数、「他人」が存在する状況があるというのが理由だ。

必ずしも家庭環境が全てというわけではないが、少なからず家庭も社会の一部であり、そこでの状況が人格形成を左右することであるのは言うまでもない。

 

bについては、人のミスに寛容的になれる気質を「ポジティブな性格の人」は有しているからだ。完璧な人間など存在しないという前提の中で、いかに建設的な姿勢で望むかが問われる。

 

②「人との付き合い」にはコツがある。

 

多くの人と関わっていく中で、テクニカルな部分は知識の吸収(インプット)と実践(アウトプット)の中で鍛えていけるなと思った。

だから、①のa、bで挙げた二項に該当しないからといって、「人と関わること」を諦める理由にはならないし、諦める必要もない。

 

そして、僕も決して「人との付き合い」のコツを全て熟知しているかというと、決してそうではない。常に学びの姿勢だ。今後もハングリー精神を持ってどんどんいろんなことを吸収していきたいと思っている。

 

今回は少なからず僕の経験則の中で気づいたことを以下列挙していく。

 

c・人に対して失礼な発言をしないこと=言葉の選択に配慮すること

d・全ての人に対して同じ態度でいること=誰に対しても礼儀を重んじること

e・相手のペースを見て、話し方や話す内容を変えること=相手と同じレイヤーでいること

f・良きリスナーでもあり、良きスピーカーでもあること=聞き役であるだけでなく、自分の“個性”を出していくこと

g・常に正しい行いを心がけること=信頼関係を築くこと

 

③知人友人の母数が増えると、それだけ自分の考え方や価値観も広がり、魅力ある人になれる。  

 

世の中、自分が知っている事よりも、知らない事の方が圧倒的に多いのではないかと僕は考える。

それは、孤独で閉鎖的に過ごしていた浪人時代を経て、広い社会の場へと踏み出したときに感じた強烈なギャップがあったからだ。

 

無知である事は恐ろしい。

無知であることは、自分の世界を狭め、拘束し、そこに他人が入り込む余地は無く、孤独な道への悪循環を生み出す。

 

広く多くの人の意見を聞くこと、多くの考えに触れることは素晴らしい。

人と人との関わりは予期せぬ化学反応を生み出す。

そして、刺激的なインスピレーションは、常に良い方向へと自分を導いてくれる。

人間関係の世界で言うとするならば、人と人との関わりの中で学んだこと、知ったことのインプットは、別の場でのアウトプットに生きる。そこでのアウトプットは、また違う場、違う人との関わりの中での誰かのインプットへと作用する。

それが例えプロダクトの世界であろうが、良いものを生み出すことで人々にとっての刺激的なインスピレーションとなり、そしてクリエイター達の次のアウトプットへと作用する。

そんな好循環へと導いてくれるのは、何よりも“人と人との関わり”だ。

 

 

 

冒頭で「他人は自分を写す鏡。」という言葉に触れたが、後輩たちが「お客さんとの会話のやり取り」が苦手だったのは、一部僕の力量不足を表していたのだろう。

しかし、そこでの気づき(インプット)が、このブログエントリーのアウトプットへと繋がり、またここでのインプットが違う場での誰かの良きアウトプットに少しでも繋がれば…と願っている。

 

 



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そんなこんなで3年間お世話になりました。

アルバイト以上のことをやりたかった僕に、アルバイト以上のことを挑戦させてくれた店長、支えてくれた仲間たち、そんな僕を尊敬してくれた後輩たち、周りの人たちに活かされた3年間だったと思います。
スターバックスの今後の明るい未来を心から応援しています。

 


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ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【4月】

 

 

 

「新しいことの始まり」は、未来への出発と過去の清算が同時に混在する時期を最初に迎える。

 

4月はまさにそんな時期だ。

 

新生活に期待で胸を膨らませる時期でもあり、また同時にステップアップのためにそれまでの生活とお別れしたことを自覚する時期でもある。

 

 

 先に進みたい思いを他所に、今僕の中では“過去の清算”が尾を引いている。

 

「じゃあ」と後ろを振り向くことなく勢い任せに家を飛び出した僕を、なぜだか背中では「行ってらっしゃい」と見送る仲間や家族の姿があった。

 

「新しいこと」の始まりは、「それまでのこと」を切り捨てる行為のはずなのに、「それまでの人達」はいつも温かく僕を送り出していく。

 

何故の温かさなのか、考えてみれば容易にわかるものの、辿り着いた結論を飲み込めない自分がいるのも事実だ。

 

そんなフクザツな思いで、いつも4月は僕の中を過ぎていく。

 

桜は今年も美しく咲き誇っていた。

 

 
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